駆け出し社長の生まれなど。
1985年生まれ。静岡県浜松市(現在の西区)で生まれ育ちました。
実家は農家を営んでおり、梨とみかんを育てています。
畑(今は結構家が増えました)に囲まれて浜松駅までは歩いて2時間、車でおよそ30分ほどの田舎町です。
長男ということもあり、一人でいることが好きで一人遊びが得意な幼少期だったと思います。
小中高とスポーツ(陸上、水泳など)をやっていました。
浜松自体は良い街でしたが、すごく閉鎖的な気がしていて、
なんとかこの街を出る手段はないかとずっと思っていました。
小学校の高学年くらいからラジオを聞くようになりました。
静岡はAMはSBS、FMはK-MIXです。
音楽(邦楽が主です)が好きでラジオの音楽番組を聞いて、
好きな音楽をカセットテープに録音してよく聞いていました。
これはSBSのカウントダウン番組だっと思います。
ニッポン放送とネットしていたのでオールナイトニッポンも聞いてました。
あと土曜の夜にやっていた「ドリアン助川の正義のラジオジャンベルジャン」、
その番組が終了した後にスタートした「福山雅治の魂のラジオ」、この辺りは熱心なリスナーでした。
SBSでも自社制作していた「ラジオの王様」も好きでした。
中学生になるとFMの方で「やまだひさしのラジアンリミテッド」がスタートして、
この番組も好きでよく聞いていました。
そもそもラジオを聴き始めたのは、家のテレビのコンセントが外されて、
施錠がされていたためだったことを書きながら思い出しました。
それは過剰な家庭教育だったと思います笑。
大学進学前の話
高校に進学してからは、小学生の頃から続けていた陸上に本気で取り組むようになります。
長距離ランナーでした。今は全く走らなくなってしまいましたが、
あの当時は毎日のように長い距離を走り、頑張ってました。
高校2年生の頃、友達から日本のインディーズのパンクバンド(青春パンク)、海外のパンクバンド(メロコア)を教えてもらい、どハマりして聞くようになりました。
個人的にはBeingに所属してるアーティストが好きで、FIELD OF VIEW・WANDS・小松未歩を熱心に聞いていました。
それと同時に進学するならなんとか実家脱出を目論んでいたので、
地元の国公立などを進めてくる両親を必死にかわし、
体育学部に進学するという理由で、関東の方の大学を視野に受験することを決めました。
受験失敗からの東京浪人生活
高校3年生で夏期講習や冬季講習などを受けさせてもらって、
受験に臨みました。
勉強不足がモロに出て、受験校全て不合格。
高校の卒業式を蹴ってまで受験した大学も全て失敗。
浪人することを決めました。
体育進学センターという東京にある予備校に1年間通いました。
国公立選抜クラスからスタートして、学科及び実技のトレーニングに励みました。
途中自律神経失調症を患ったり、失恋して予備校のクラスが3つくらい下がったりという苦い経験もいっぱいしたけど、浪人自体は経験しておいて良かったと思っています。
人生の大変さを少しだけ知る良い機会でした。
その結果、国士舘大学体育学部体育学科に合格して、進学を決めます。
大学生活〜就職まで
2005年、大学に入ってからは軽く燃え尽き気味でした。
真剣に部活をやるわけでもなく、友達と遊ぶわけでもなく。
たまにバイトしたりというのが1年くらい。
2年生くらいからは学校には真面目に行きつつも、予備校でのバイトに精を出し、
空いている日は高校時代に教えてもらったバンドのライブに、ライブハウスに通ったりと、今の仕事に通ずるようなところの入り口にたどり着いたと思っています。
そこから中学高校の保健体育教員免許を取得をしながらも音楽業界への希望も抱きながら、大学4年まで進級しました。
4年生の9月に教育実習を終えた時に、
学校のグレーゾーンを許さない感じに(そりゃ教育の現場なんだから、そうだ)、
難しさを感じ、教員の道からのシフトを決めて、
就職活動を始めます。
音楽業界の先輩のアドバイスを聞きながら、
その当時の身近な音楽の職業であったコンサートプロモーター(コンサートの宣伝をしたり、コンサートの運営をしたりする仕事)への就職を目指して活動した結果、
東北の某エンタテインメント企業に内定が決まり、
大学卒業と同時に仙台に移り住んで、会社に入社する感じです。
社会人スタート〜現在
2009年3月、そもそも東北地方へのリテラシーが全くないまま、
仙台に移り住んだため、最初は本当にわからないことだらけ、
そして入社して気づいたのはいかにその土地のことを知らないと仕事にならないことと、
自分のコミュニケーション能力の低さを痛感するわけです。
石の上にも3年とばかりに続けて、その間東北での大震災などもありながら、
なんとか続けて、ある日ずっとこの仕事を続けても先輩方がいなくならなければ、
やれることは変わらないと感じてしまい、退社を決意します。
色々とあって辞めるのに時間はかかりましたが、先輩のアドバイスを受けて、
次の働き先を決めてから退社。
2012年に東京に舞い戻り、アーティストが所属しているマネージメント会社に入社して、その会社ではコンサート・ライブ制作を担当。
規模の大きいアリーナ公演からライブハウスまで色々な現場に行かせてもらいました。
アーティストがいる事務所だったので、マネージメントマインドみたいなところも垣間みえて楽しい会社員生活でした。
2017年の秋に、会社を退社して、フリーランスとしてライブ制作をスタート。
所属していた担当アーティストが会社を離れるタイミングでの退社で、美談的に語られることもあるが、ツアーなどが決まっていて、宙ぶらりんになるのが申し訳なく、
一緒のタイミングで離れることになります。
独立して一旗揚げる的な意識の高さはなかったとは思います。
その後、2年間のフリーランスで生活。
フリーランススタート直後の2018年に2月に長崎県でタイヤバーストによる交通事故で、
右手の皮膚を欠損。長崎での手術&入院生活(嬉野医療センターの皆さん・長崎大学付属病院の形成外科の皆さんありがとうございました)、東京に戻ってからのリハビリ生活(四谷メディカルキューブの手の外科&リハビリ科の皆さん、お世話になりました)を経て、なんとか生き延びてまいりました。
音楽以外にもイベント飲食の派遣のバイトしたり、野菜にこだわりのあるレストランに野菜を配送する仕事(IT企業でした)などを経験しました。
いろんな業種の方に大人になってから接することができて、すごく勉強になるわけです。
2019年10月に法人化して、現在コロナの影響により廃業寸前まで追い込まれているのが、今です。
音楽業界のコンサートやライブの仕事は時間と労働力を切り売りして、稼業にしているのが、今の僕の職業です。
いわゆるリモートでは完結しないようなことを仕事にしている手前、なかなか働き方を変えていくのは難しいところです。
ブログにどれだけ仕事の話に触れられるかはわかりませんが、
少しでも文章として残していけたらと思っています。
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